God HandはやっぱりGodだった
軽く12年くらいお世話になっている鍼の先生がいる。勝手にゴッドハンドと呼んでいる。
Godだ。Goodなハンドではなくて。
腱鞘炎、ぎっくり腰、頭痛、肩と首が痛すぎて、眠れず痛み止めを飲んだ日も、すごいんだ。1回でかなり症状が減って、その後数回通えばあの大騒ぎはなんだったのだろうと思うくらい。
駆け込み寺みたいに行くことが多かったが、だんだん身体の不調がちらほら出るので、間隔は開いているものの、定期的にメンテに行くようになった。
God handは的確に鍼を刺し、微妙に調整していく。症状によっては電気やお灸もして、最後は全身のマッサージ。
鍼を刺し終わったらしばらく待つので、その時に毛布をかけてくれる。毛布を首と肩回りにぐっと沿わせ隙間ができないように、足は毛布でくるんで足先が冷えないように。
その毛布はちょっと重く分厚くて、花柄でピンクとか水色の懐かしい感じの毛布。
そういえば、母が寝る前にこんな感じでぬくぬくにしてくれたなぁ、とおぼろげに記憶がよみがえる。身体はちゃんとおぼえてる。
God handは「ちょっと休んでてね」と言いつつも、休むことなく結局お互い色々な話をしている。
家族、子ども、体調、仕事、昔の話、ちょっとした人生相談、God handの健康の秘訣話、など。
途中眠くなって、意識が吹っ飛ぶときの方が多いけど。
最近は一時間に患者ひとりの予約にしたのだそうだけど、たまに前後で他の患者さんと重なる時がある。
God handもお年なので、患者さんたちも長年の常連さん。または、常連さんの子ども・孫世代まで。
カーテン越しに聞こえる会話や、予約の電話のやりとりから、憩いのコミュニティになっているのが感じ取れる。
しばらく、God handの所に行かず、ある日また「こ、これはGod hand案件か💦?」という感じで、身体が悲鳴をあげる。
慌ててLINEすると、必ず返事をくれる。
「~時にいらしてください」
変わらず、そこにいる。そして相変わらずやっぱりGodだ。
同じことをずっと続けるって、すごいことだと思う。同じ場所にずっといてくれる、そして診てくれる、それもすごいこと。
でも、それは永遠には続かない。そんなことはわかっている。
当たり前に次があるなんて、大抵の場合わからないんだ。そんなことは頭ではわかっている。ただ、少しでも変わらずそこにいて欲しい。そう願ってやまない。
そう思う大切な人達、優しい人達が周りにいる。そんな風に特に強く感じ始めたのはここ4,5年くらいか。それに気づくとそういう人達が次々に思いつく。沢山だ。
そうなると心がキュッとなる。そしてこわくなる。大切だからこわいんだ。
あなたにとっての大切な人は、どんな人たちですか?